日本の人々は、過去1000年以上にわたって本当の歴史を知ることはできませんでした。ところが、現代に至り、中国に残されている史書も図書館やインターネットで簡単に閲覧することができるようになりました。そこから、この列島に関わる本当の歴史を知り得るようになりました。
まず、天皇というシンボルは、西暦660年、唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天が、当時の道教の理念に基づき、皇帝を天皇、皇后を天后と改称したことにそのルーツがあることが分かりました。
では、その武則天が命名した天皇が、どうして、この日本に存在することになったのでしょう。
それは、その当時のこの列島と唐王朝との関係が明らかになればおのずと理解することができます。
この列島の出雲王朝は、隋と国交断絶になりますし、「倭国などと呼ぶな、日本(ひのもと)と国名を改めたので、今後はそう呼ぶように」と、隋と同様に属国扱いをする唐王朝とも激しく対立します。
そして、7世紀になると新羅対百済と高句麗間で争いが頻発するようになり、660年、百済と高句麗が新羅に侵攻し、新羅は唐に援軍を要請します。それ以後朝鮮半島をめぐって東アジアは激しい戦乱状態に陥ります。662年、唐と新羅は、いよいよ百済と高句麗の討伐に動き出します。一方、百済は「倭国」に支援を要請し、663年9月、唐と倭国の船団が、白江口で戦闘状態になり、倭国軍はことごとく殲滅されてしまいます。これが、「白村江の戦い」と言われています。その直後、劉仁軌率いる唐軍によって日本は占領征服されてしまいました。
そのちょうど1年後、一時帰国した劉仁軌がこの列島の占領状況を皇帝に報告した言葉が資治通鑑に残されています。「陛下が兵を海外に留めているのは、高句麗を滅ぼすためです。百済と高句麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえともに影響しあっています。もしも守備兵を配置しなければ、ここはもとの一国に戻ってしまいます」と、高句麗征服のためにこの列島を支配し続けていたことが述べられています。
663年11月18日、旧暦の10月10日、当時の出雲王朝の人々はことごとく惨殺され、また多くの人々が東北に逃れていきました。ですから、出雲弁と津軽弁のイントネーションは共通しています。そして、今に至るまで、当時の亡くなった人々の弔いが執り行われています。それが、毎年旧暦の10月10日出雲の稲佐の浜で夜7時から執り行われる神迎えの神事に始まる「神在祭」です。
その後、唐王朝による支配体制が完成し、それが701年の大宝律令です。それと同時に、天皇を頂点とする身分制度が導入されます。これ以降、日本の人々は唐王朝による殖民地支配下に置かれます。すなわち、唐王朝からすれば、天皇とはこの日本征服の象徴だったのです。
しかし、その後、唐王朝がこの日本を占領征服したという歴史はことごとく消されてしまい、今に至っては、我が国はどこからも占領も征服もされていないなどという洗脳教育が徹底されています。それによって、唐王朝の残党勢力による日本人支配は安泰なのです。
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